25 手を濡らさずに水の中のものを取る2
仏道には念仏を唱えるとか、座禅をするとか、公案を考えるとか、苦しい修行をするとかいろいろあるのだが、その目的はすべて共通していて、自分のとらわれた思いから(これを煩悩と言う)いかにとらわれを外すかということである。念仏を唱えるというのは、いかにも自分の幸せを願って仏様にお願いするというふうに見えるが、こんなのはまだ本当の念仏ではない。切羽詰まっていて、自分でなんとかしようとは思ってもどうにもなりません。どうなっても構いません、自分の身はすべて仏様におまかせします、なんとかお救いくださいますように、というとき、はじめて自分へのとらわれから外れていることになる。だから、自分へのとらわれから外れれば苦しみは一切、無になるのですよ、それを悟りと言うのです、とお釈迦様もおっしゃっているのだが、簡単に実現できるぐらいなら、何も苦労することはない。
なぜ難しいかというと、自分へのとらわれというのは、いわゆる五欲(食欲、色欲、名誉欲、金銭欲、睡眠欲)の五つのことなのだが、これは生きている人生そのものだからである。よく、誤解して、全部を滅却すれば悟りを開くことになるのだ、などというが、そんなのは悟りではない。人間の干物である。だから手を変え品を変え、どうやったらいろいろの事象にとらわれず、颯爽と生きられるのかという修行をするのである。一心不乱に念仏を唱えるとか、千日回峰など苦しい修行するというのは、なんとなく自分を放下するという修行のイメージがあるのだが、禅宗の修行というのは少し違う。少し覗いてみよう。
禅宗の宗派には大きく分けて、曹洞宗と臨済宗とがある。本当は五つある。浄土宗、浄土真宗というのは、ひたすら念仏し阿弥陀如来の慈悲にすがるというものだし、天台宗、真言宗というのは厳しい身体の修行を通じて何らかの悟りを開こうとするものである。禅宗は少し違う。仏様にすがることもしないし、苦しいし身体修行も無い。では何をやるか?ひたすら自分を見つめる。半端な見つめ方ではない。ひたすら見つめるのである。
曹洞宗は道元が開いた宗派だが、只管打坐。ただただ、ひたすら座禅をする。なんのために?目的はないらしい。ただひたすら座禅をする。そのうち何かがわかる。理知的にせめてもなんにもならない。完璧に、自分はないというぐらいに座禅をする。(これを座禅が座禅をするという)座禅をし倒した時、自分が自分から離れ、やっととらわれから外れるという。これはその域に到達したことのある人にしか分からないものだし、だから言葉で説明できない。これを悟りの世界という。
苦しくて苦しくて、本当に自殺を考えているこういう人は、最後の力を振り絞って曹洞宗の門を叩くとよいかもしれない。そうしたら新しい世界が開けるかもしれない。苦しいというのは自分にとらわれ過ぎていて離れないということなのだから、無理やりそれから離れようとしてもそれは不可能である。徹底的に諦めて座禅を組むと、不可思議な自分の力で、とらわれから離れるのだろう。筆者もそこまで座禅をやったことはないので、こういうことを書くと無責任なのだが、現実的には一般的にそう言われてはいる。
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