27 手を濡らさずに水の中のものを取る4
筆者の考えた公案もどきを提示しよう。
水の入った水槽の底に金貨が一枚沈んでいる。手を水で濡らさないように金貨を取り出すにはどうすればよいか?もちろん手袋を使ってはいけない。
まず、昔流行った、頭の体操とか水平思考レベルの答え方。
1) 水槽に穴を開け、水を全て流し出すと手を濡らさないで取り出すことができる
2) 円筒を入れ、金貨を囲むようにして円筒の中の水を吸い出してしまえば、水槽に水が入っているが手は濡れていない。そこで金貨が取り出せる。
3) ストローを金貨に当て、吸いついて金貨を取り出す。
もっとあるかもしれないがこれは頓智レベルの答えである。
次はもう少し現実的に取り出すことを考えてみる。そもそも手を濡らすということはどういうことを言うのか?手の表面に水が触れることを言う。では水が手に直接触れることなく取り出せれば良いのではないか。油でベットり手に油膜を作ってやれば、手が濡れることなく取り出せるではないか。(これは手袋ではない)そもそも人間の手は普通でも油で覆われているので、本来濡れることはないはずである。だからそのまま手を突っ込んで取り出しても、差し支えない。これは公案というより、物理の話である。
さて、これが禅の公案だったらどう答えを出すか?筆者は悟りの境地などほど遠いところにいるので、答えになっているのかどうかはわからないが、他の公案より類推してこうなるのではないかと思う。
手が水にぬれるというのだが、そもそも人間の体はほとんどが水でできている。勿論手もも例外ではない。ただそれが表面の皮膚で覆われているため、外へこぼれていないだけのことだ。つまり手はすでに濡れているのである。新しく濡れるということはない。水槽に手を入れたとしても、皮膚の外に水があるというだけのことであって、内であろうが外であろうが濡れたということにはならない。だからそのまま水に手を突っ込んで金貨を取れば水に濡れることなく取り出せる。つまり自分は水であり、水と自分は一体なのだから、自分は水として行動しているのだ。
いかがでしょう?禅宗の悟った方は、筆者のこの回答を見てこういうに違いがない「この愚か者めが!」
皆さん方も碧巖録なり無門関あたりをしっかりと読まれる良いと思う(かなりが骨がありますよ)公案に取り憑かれて、いつしか公案解きの怪物に変身していて、偉大な悟りの境地に到着しているのかもしれない。
さて自分にとらわれるということは、自分がこうしたいと思った時、その外の選択肢を考えることができない状態に陥った事のことを言う。つまり余裕がなくなった状態である。その時、自分の都合が良くなるように、周りの環境が変わることを期待している。しかしよく考えてほしい。あなたがどのように考えようと、周りはまったく変化しない。もし変化したように見えたとしたら、それはあなたの心境が変化したからなのだ。全く同じ環境でも、あなたには、苦しくてどうしようもないという状態に映る時もあろうし、こんなに快適な状態でよいのであろうかというふうに映るときもあろう。すべてはあなたの心の置き所一つと言える。あなたの心の中にほんのちょっと余裕があって、物事の捉え方を少しだけ変えることができれば世界が一変することは間違いない。具体的にはどうすればよいか。中村天風を読んでください。安岡正篤を読んでください。神渡良平を読んでください。そして筆者の拙書「天の味噌汁」を買って読んでください(本の宣伝)。きっとなんらかの発見があるはずである。いや、私は自分のことはどうでもよい。父、母、子供の心配で心をいためているのです、という人もあろう。でもね、あなたが思っているほど父、母はそんなに心配していないかもしれませんよ。もし苦労をかけるというならそれでもいいではないですか。苦労とは成長するための最大の人生修業なのだから。あなたはもしかしたらいいことをしてあげているのかもしれない。親、子供に苦労をかけさせたくないという優しい気持ちはとても尊い。でも苦労している姿をじっと見守ってあげてる姿はそれよりは尊いと思う。逆を考えればわかるだろう。あなたは、今、苦労しているとする。親にどうして欲しいか?何でもかでも解決して欲しい?そう思うなら、あなたが自分では何の解決もできない、甘えん坊のお坊ちゃんお嬢ちゃんだ。親が自分の話をじっと親身になって聞いてくれる。よし解決は自分でやろう。あなたは親にどちらを望むか?
まあ苦しむということは自分が成長するための一つの試金石だというぐらいに捉えるのが、天意に即したことだろう。
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