㉒ 仰げば尊し、蛍の光
更新日:7 日前
筆者が小学校、中学校、あるいは高校の時まで、入学式、卒業式というのは厳粛なるものであった。先生、生徒一同みな直立不同であり、国家を斉唱し、仰げば尊し、蛍の光を斉唱した。感激に泪する者もたくさんいた。普段バンカラで通っていた様な奴が、おいおいと声を出して泣いている情景を思い出す。この厳かな式典が終わると、ああ、もう卒業か、また新しい世界が始まるのだなという気持ちと、心の通じ合った仲間ともこれでお別れになるのだ、という複雑な気分だったことを思い出す。当時はそんなに人の心は科学的ではなかったから、君が代反対とか戦争責任がどうのこうのというものはなかった。皆、心を一致団結させて式に臨もうというのが暗黙の了解であったのである。
いつの頃から君が代反対というよりなったのであろう。ブログを調べてみるとかなり複雑な事情が絡んでいるようである。歌う歌わないという各々の事情があるのはわかるが、主役は生徒だ。生徒が新しい世界へ巣立っていく厳かなの儀式である。やはり和を以て貴しとなすの精神を忘れてはいけないと思う。君が代反対は反対で良いが、式典に際してはやはり巣立っていく若者たちのことを大事に考え、先生個人個人の思いをぶつけるのは他の場所でやれば済むことなのにと思ってしまう。どうも君が代反対の人たちは、自分にとらわれすぎているような気がする。生徒のことなどどこかへ飛んでしまっている。まあ、この問題は解決できそうにないので一応置いておく。
そういえば、最近のオリンピックのオープニングセレモニーなどを見て思うことなのだが、最近は、競技の成績は個人の業績であって、国を代表して国家の威信を高めるため、国家対国家というまとまりで競技しているのではないというような雰囲気である。すべて個人主義だ。国家のためという意識は薄れてきているようだ。なんとなく、セレモニーは楽しければいいのさと言う”おふざけムード”に終始しているようであり、厳粛さはなくなってきているようである。それは現代と言う時代の空気なのであり、抗うことのできないものであるから、それが悪いと言うつもりは全くないのであるが、1964年の東京オリンピックの開会式とくらべてみると、筆者、年寄りの感覚からすると、一抹の寂しさを感じざるを得ない、。オープニングぐらいはもっとピシッとした方が良いのになあ、という思いである。
さて、仰げば尊し、蛍の光を歌った時のことを思い出す。最近は、現代の感覚に合わないという理由で歌われない学校も多数出てきたという話である。現代感覚に合わないと言うが、そういう人たちは、仰げば尊しのどこが現代に合わないというのであろうか?一番の歌詞をすべて熟知して言っているのかであろうか?これほど深い歌もない。仰げば尊し~早幾年までは良いとして、「いととし]と「わかれめ」がポイントである。幾年ではない。「いと疾し」である。ああ月日が速く過ぎ去ってしまったなあ、という感情の高まりを示す。今こそ分かれ目、今が別れる時点(目)だと解釈しているようだが違う。「こそ」の結びは已然形で、「別れむ」が婉曲になるのである。「いろいろなことがあったが、そろそろここらで一旦別れようじゃないか。本当は別れたくもないけれど」という意味となる。なんと情感にあふれていることか。
蛍の光もかけ言葉の連続でそこはかとない情感を醸し出している。この情感がわからないとしたらこの人日本人かと思いたくなってしまう。日本人としての情感がある方だったら、卒業式では、仰げば尊しと蛍の光は外すべきではないと思うのだが。チャラチャラした式とは違うのだ。生徒たちが心根も新たに覚悟を決めるべき時なのが卒業式である。ここに厳粛な雰囲気を期待してはいけないというのであろうか。”厳粛禁止”などとんでもないと思うのは筆者だけではなかろう。
日本人なら和歌、俳句、そういうものに深く感じるのは当然のことのように思える。筆者は高校のころ和歌の授業を受けた。教師は和歌を口ずさむ。生徒の間をゆっくり歩きながら何度もその和歌を繰り返す。その歌がどういう意味なのか一切説明はない。ただ一言を繰り返すのみである「ああ、ええですなあ、ええですなあ」と。通りいっぺんの意味など、どうでもよいのである。和歌のリズムと音感。これがわからないと君は日本人か?と言われても仕方がないかもしれない。
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