㉓ 相対主義と絶対主義
相対主義、絶対主義、いずれが正しいのかは古来より議論されてきた哲学の難問です。古代ギリシアにおいて、相対主義を主張したのがプロダゴラス、絶対主義を主張したのがソクラテスです。
まず相対主義とは何か?平たく説明します。冬の日本にロシア人とベトナム人が来たとします。ロシア人は日本の冬は暖かいと感じ、ベトナム人は日本の冬は寒いと感じると思います。つまり暑いとか寒いとかには絶対的尺度がないからです。悪人がいるからこそ善人が際立っているわけで、そこに反省が生まれ成長するきっかけとなるわけです。周りが善人ばかりですと、すべてが同じとなって、成長するきっかけすらつかめません。個人の感覚によってすべてが決まってしまうのです。だからプロダゴラスの主張は「人間が万物の尺度である」と言う言葉が示す如く、「絶対的なものなどない。あるのは個人的感覚だけだ」となります。人間の多様性を認めているわけで、これは現代流の考え方とよく合っているため、たいていう人は現在でも相対主義的立場をとっているようです。ただこうなると個人の感覚のみになってしまいますから、何らかの基準もなくなるわけで、大衆迎合の意見が幅を利かせることになってしまいます。そうすると政治はだんだんと腐敗してきます。
次に絶対主義です。この政治の腐敗をきっかけとして出てきた理論とも言えます。ソクラテスは、物事の本質として絶対的な価値、絶対的真理の存在を認める思想を展開しました。では絶対的真理とは何でしょう?「それは分からない。しかしわからないことを知っている」これは「無知の知」と言われています。「分からない」が対象言語で「分からないことを知っている」というのがメタ言語になっているということが分かる方は、私の記事を読んでいただいた方だと思いますので感謝いたします。
ではわからないという絶対的真理はどこにある。それは現実の中にはなく、イデアの中にあるというのですね。このように絶対的真理を導き出すには、かなり抽象的難解な議論をせねばなりません。現代ではこの立場をとる方はかなりの少数派です。
どちらが正しいのか?そんなことは誰にも分かりません。
筆者はどちらの立場か?実はどちらとも言えないのです。筆者は神の存在を信じていますから、絶対的真理は、天、神にあり人間はそれに応じて生きて行くという立場をとっていますので、絶対的基準を神に置く限り、絶対主義とは言えるのですが、それを信じない人がいても、それは科学的根拠に基づいて人間の多様性を認めて生きているのだから、それはそれで正しいのではないかとも言えます。こういう立場はかなり相対主義になっているのではないかと思います。
絶対主義は議論が煩雑になりかえってわからなくなる危険があり、相対性主義はややもすると無責任で大衆迎合になると言えます。
現実的な点から見る限り、人間は相対主義にしかなりえません。相対的にしか物事を見ることができないのです。絶対主義と言うものは、言ってみれば形而上学的な物と言えるでしょう。繰り返しますが、純粋に相対主義になってしまうと善悪の基準が全くなくなってしまいます。理屈さえ通れば悪党にも一理あるという考え方です。
でも善悪の基準はやはりあるような気もする。人を殺してもそれは個人の自由だなどとは言えないのだから。こうなると話が堂々巡りになっていきます。やはり絶対主義的な基準はなければならないのは必然で、それを小難しい議論で積み上げても、結局は同じことを言い換えているだけのような気がします。筆者はやはり天、神を絶対的基準にするのが最適のような気がします。そこには何の矛盾もありません。あとは神を信ずる、信じないかだけです。それはあなた次第です。
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